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​みぶーの歴史

2002年12月

音楽活動開始。(20歳)

ガールズパンクバンド『暴走列車3-9』にドラムとして加入。

(ボーカル:シーディー ギター:イデチ ベース:ユカ)

12月21日原宿GABIGABIが初ライブ。

ライブハウスでは2003年1月4日下北沢屋根裏が初戦。

2003年8月

バンド活動を始めたらコレだとなり大学四年後期が始まる前に中退。(21歳)

親と先生に止められ続け8月ぎりぎりまで在学となった。

加入時パンクバンドだったが、私が全くパンクを通ってない人間だった為、徐々にロック寄りになっていく

ガールズパンクロックバンドを経て気づいたらガールズロックバンドとなっていた。

(加入時1曲1分20秒位だったのが後期は5分とかの曲も。衣装もライダースにミニスカートみたいなパンクスタイルから後期は着物に。)

ライブにCDに遠征にと勢力的に活動、マネジメントもしていただくようになるも

2005年12月

ガールズロックバンド『暴走列車3-9』解散。(23歳)

(解散ライブは12月19日新宿MARZ / ギターボーカル:シーディー ギター:イデチ ベース:ナヲ)

解散が受け止めきれず解散ライブ後しばらくの間、メンバーで桃鉄(99年)をやり続ける。

このバンドをやろうと思い大学を辞めた身だったので若干路頭に迷う。

(ちなみに2005年5月に現断絶交流ベースの宍倉充氏と対バンで出会い

2005年6月に現hactoさんの前身バンドと対バンで出会う)

流れ流れて解散後ドラムでサポート活動を開始する。

初めてのサポートは現hactoさんの前身バンド『LILAC』

LILACサポート開始後しばらくしてバンドのミーティングするにあたり、いいところがあるからと連れていかれたのはまさかの献血会場。当時注射が大の苦手だったのでひきつりまくるが断れずに決行。とんでもない顔で人生初の献血をする。(今では注射も慣れすっかり献血民に)

このLILACサポートの中で

現チームしめちこちゃんの横田堅弘氏と現ボクダンガンの田端誠氏のデュオ

『モズキング』と対バンで出会う(事務所が一緒だった)

2006年

リズムペインターユキンコアキラさんのバンド

『ユキンコアキラ+α』のドラムに抜擢される。(24歳)

2007年3月

サポートしていた『LILAC』が活動休止。

のちにソロで活動せざるを得なくなったhactoさんに

強制的にカホンを渡される。(これがカホンの出会いとなる)(25歳)

2007年夏

ガールズロックバンド『リヴラヴリー』にドラムとして加入。

(ギターボーカル:ユミ(ex.シーラヴアール) ベース:ナヲ)

秋頃パーカッションでのサポート活動も開始する。

引き続きソロになってもサポートをしていたhactoさんが鳥取は素晴らしいとあまりにも言う為

そんなにいうなら確かめたいと単身で鳥取に行きまんまとはまる。年に数回鳥取へ行き始める。

2008年11月

『リヴラヴリー』メンバー脱退に伴い活動休止。(26歳)

(活動休止ライブは11月22日大阪CLAPPER / ギターボーカル:ユミ(ex.シーラヴアール) ギター:チアキ サポートベース:aki)

以後バンド活動は諦め

ドラム・パーカッションで

様々なアーティストの方のサポート活動をさせていただきながら

板橋のお店でライブや展示、飲み会などのイベント企画を2012年までの間に100本以上行う。

​(日替わりな勢いでかなり色んな方のサポートやセッションなどをさせていただいてた時代)

2008年
アコースティックデュオ『モズキング』のサポート開始

2009年4月

自転車のパンク修理を教えてもらった事をきっかけに翌日

突如東京~鳥取自転車旅を決行(27歳)

(ノープランなあげく、ギアなしのタイヤの細い街乗りオシャレ自転車で行ってしまい、せめてママチャリで来ればよかったと後悔する。6日間でたどり着く。)

2009年5月28日

新規のドラムのサポート現場に行ったらスタジオに宍倉充氏(現断絶交流ベース)がいてまさかの再会をする

 

2009年6月20日

カキブチユウキさんのサポートで宍倉充氏と初めて一緒にライブする

(場所は吉祥寺SILVER ELEPHANT。以後11月7日のワンマンライブまで数本サポートさせていただく)

 

2009年7月30日

カホンサポートで出演していたライブを陣内和生さんに目撃されライブ後声をかけていただく 

2009年9月2日

楽器屋さんでとても可愛くていい音のギターに出会ってしまい一目惚れ

突然アコースティックギターを購入してしまう

(横田氏から長〇剛の構え方で教わってしまい、のちに『みぶ渕』というキャラクターが誕生する)

2009年9月11日

早速自分のギターで弾き語りする

2009年9月26日

高田馬場四谷天窓にて『陣内和生』さんワンマン初サポート

2009年10月26日

プロレスに全く興味なかったのだが

すごい興奮して周りのみんなに声をかけてる横田氏に対し

男子がみんな断っているデスマッチというものがいったいなんのか見てみたいと思い

仲間の中で私だけが横田氏にくっついて大日本プロレスの興行へ行く。

そして後楽園ホールで人生で初めて『プロレスを観戦』する

面白かったのでもっと観たい!と勝手にスケジュールを調べだす

 

2009年10月30日

正式に『みぶ渕』名義でツーマンライブを行う

以後ちょこちょこライブをしだす。マニアックなファンが誕生する。

2009年11月9日

新木場1ST RINGで『葛西純選手』に完全にどはまりする。

(横田氏と初めて2人で出かけた場所となる。)

2009年11月20日

後楽園ホールで葛西純VS伊東竜二戦観戦にて葛西純生涯完全体となる

(のちにプロレス大賞ベストバウトを受賞する伝説の試合)

葛西選手はプロレスリングFREEDOMSが所属団体であると知り

FREEDOMSにも通い始める。(地方大会へも一人で出没)

2010年2月

鳥取好きがこうじてがっつり山陰の新聞に写りこんでしまう(28歳)

(2月20日山陰中央新報、2月23日日本海新聞)

2010年3月14日

モズキングのライブでカホン演奏中に頭を振り過ぎて後ろの壁に激突。ムチウチになる。

以後しばらくモードXと称してスタンディングカホン(首を曲げないスタイル)などで活動。

(ムチウチになったことにより紹介していただいた整体の先生の繋がりで、のちに『三浦祐太朗』さんともイベントで出会う)

(ちなみに2010年5月現断絶交流ボーカルギターの川口純平氏とも対バンで出会う)

2010年7月8月

故田村JINさんの紹介で『日本テレビ夏のイベント汐博』のDJとしてイベントに携わる。

(ドラムなので当時スタジオに置いてあるミキサーすらいじった事なく、勿論DJなどもしたことないのに、何故かDJに抜擢され、しかも洋楽しばりと言われ青ざめる。洋楽全然知らないしCDなんか1枚も持ってないんですけどぉぉぉっっ、と慌ててTSUTAYAに。とにかくいっぱい曲が入ってるCDを借りに行く。片っ端から聞いて使えそうな曲をピックアップ。わけもわからぬまま必死に操作、選曲していたのだが、選曲渋くていいねぇなどと評価していただいたりし、その後2014年までの5年間DJとして参加させていただく。のちに何故わたしをDJに抜擢したのかJINさんに聞いたら、サポートで空気よんだりができてるからみぶちゃんならDJも出来るかなと思って(ニコニコ)。と言われ半分なるほどぉと思いつつもいやいやいやっまじで毎回必死ハチマキで大変だったんですけどぉぉっ(汗汗汗)と。そしてこの現場で『DJ西尾』さんに出会い感動する。

2010年9月20日

『モズキング』活動休止ライブにドラムで参加。

10年間活動していたモズキングの活動休止で、もぬけの殻状態の横田氏と

後楽園ホールと新木場1ST RINGと横浜文化体育館等々プロレス会場しか一緒にでかけてないままに

そのままの勢いで

2010年12月12日

横田氏母の誕生日に

正式な交際0日で突如結婚する

2011年1月19日

『みぶ渕』まさかのライブハウスデビュー(会場は赤坂L@n)

2011年3月8日~

展示のブッキングにどうしても埋まらない期間があり、こりゃ自分で何とかするしかないなと急遽

初の個展『みぶーのカケラ』展開催。(29歳)

そもそも作品を所持してるわけではないので、個展開催中にどんどん増えていくという物語テイストの展示を思いつき無理やり決行。

開催中に東日本大震災発生。個展中に結婚発表記者会見を予定していたが取りやめる。

2011年4月28日

結婚発表新聞発刊

誰にも言ってなかったので若干のタコ殴りにあったり、ショックを与えてしまう

2011年5月16日

個展で展示してたイラストを本にして被災地へ届けたいとの声や支援をいただき

絵本『もんもんびゃっこちゃんとぱんぷきんちゃんのおはなし』1000部出版。500部は被災地へ。

 

2011年6月

なぜか弾き語り『みぶ渕』でテレビ地上波デビューしてしまう

2012年~◆後半はこちら

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